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Posted by ミリタリーブログ  at 

2015年07月07日

沖縄縣民斯ク戰ヘリ

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

 左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし
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Posted by はまさん  at 20:35Comments(0)戦跡・遺構

2015年07月06日

沖縄県民は基地の周りに寄生したのか



 画像は普天間基地内 滑走路南側偏差誘導灯下の墳墓群。
沖縄の墓は内地の墓と違い、
横穴状または家状の構造物の中に一族全員先祖代々の骨壺を収納していく
台湾などで見られるスタイルの大掛かりなものです。

沖縄の基地のフェンスの内側にはよく墓が取り残されているのが見られます。
なぜかというと・・・
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Posted by はまさん  at 20:12Comments(0)戦跡・遺構

2015年07月05日

日本は沖縄を失うのか?

副題:「日本の植民地政策の限界」


 最近「沖縄はサヨクだ!! 独立するならとっとと中国様になっちまえ!!」
みたいな残念な論調が大手を振ってまかり通るようになりました。
中学校入学とともに沖縄に渡り、放出品に埋もれたしょっぱい青春で
ミリ趣味を生涯の趣味と決めた内地人(ないちゃー)としては、
沖縄の置かれた状況を考慮せず「日本が嫌いな奴は嫌いだ」的な一方的な論点で
沖縄が論じられ、沖縄と内地の溝が粛々と広げられている状況は見過ごせなくなっています。

 まず沖縄は「サヨク」か否かですが、

①戦中、沖縄県民は現普天間・嘉手納の土地を日本軍のために供出した事
※日本を守るためならと土地を差出し、勤労動員で飛行場を整備した。
だからアメリカが使うのは筋違いだというのが沖縄の心情。

②沖縄県民の主張は戦後70年一貫して、米軍の基地を拒否している
※自衛隊の基地に対しては、米軍基地ほどの反感はなく、入隊者も多い
日本が嫌いなのではなく、特権的なアメリカ軍の存在が嫌。

沖縄県民は日本復帰を切望した
※なぜなら、米軍基地がなくなるから
占領解除で米軍が撤退すれば、自衛隊が駐留しようが構わない。
なぜなら自衛隊は「日本人」だから

④現在日本政府に強硬な世論を展開している年代は、占領下の沖縄の日本復帰運動を推し進めた世代
※占領下では日の丸は認められなかったが、
この世代は卒業式で掲げられる学校の校庭の星条旗を引き摺り下ろして日の丸に替えた

点を知っている内地の人がどれだけいるのでしょうか。
これだけの状況がありつつ一概に反日左翼と決めつけて断じる限り、
沖縄の民心は日本から粛々と遠ざかっていきます。

 確かに中国系の人が多くなったりという状況の変化は感じられますが、
小生にとっては、日本を祖国と言わしめた沖縄県民にこれだけ厭日感が入り込む素地を作ったのは
明らかに日本政府の失敗と失策だったように感じられてなりません。

 どうか、ネットde真実で息巻くのではなく、事実の積み重ねで沖縄の置かれた状況を慮ってください。
沖縄を失って防衛線を下げ、不利益となるのは誰か。考えてください。  


Posted by はまさん  at 16:44Comments(0)戦跡・遺構

2010年07月04日

レバノン 5

 今回は国軍兵士。
国軍兵士は辻々にCPを構えていて、
警官より遥かに展開密度が高いので、さすがに撮影するのは気が引けます。


バスで乗り合わせた十代後半の兵士。休暇明けで基地に帰るところでした。
街に停まる度に車内に迷彩服が増えていきます。
 服装は基本的に怪しいウッドランドM65風ジャケットに怪しいウッドランドBDU。
若い兵士は高いデザートブーツを履いている事が多いです。
バックパックの中身は普通のお泊りセットみたいなもん(^^;)
軍の機関紙を見せてもらいましたが、
最初から最後まで最近のテロで殉職した兵士の顔写真でした。

 CPでフレンドリーな笑顔を振りまく兵士。
CPに停まっている兵員輸送車は、突っ込んでくる自動車爆弾をブロックする為のものです。


 割と安全な地方都市でもこの通り。CPは24時間通常営業。
装備は基本的に綿ISSAK。敵国発祥の装備なのにレバノンでは好んで使われています。
その普及率たるや、実にヒズボラの民兵も使う始末。
ISSAKは基本歩くための装備で、プローンが非常にしづらいのですが、
やはり地形的な問題からの普及率でしょうか。
 国軍兵士はM16A1やAIMSなんかを持っている事が多いです。
腰が強く、ローレディで構えて銃口が全くブレないのはさすが。

 ところで兵士はヒマなので、CPの前を通り過ぎようとすると必ず話しかけてきます。
話しても面白いんですが、
テロが起こった時真っ先に巻き込まれるので長居はしたくないですね。


  


Posted by はまさん  at 06:10Comments(0)戦跡・遺構

2010年06月27日

レバノン 4

今回の画像はプライバシー保護と安全保障の観点から大幅に加工しています。

※レバノン国内では、チェックポイント、兵士、警官の撮影は
法律で規制されています。当エントリーは撮影を推奨するものではありません。


 ベイルートのど真ん中、首相官邸下にある難民キャンプ。
昼間でも労働年齢の人達が所在無く座り込んでいます。
情勢不安はイスラム原理主義組織にとっては勢力拡大の好機ということで、
様々な原理主義組織がテロで不安を煽り立てます。


 そこでこういう人達の出番。
AK74系のライフルに黒の綿製ISSAKと、思いっきりガチ装備です。
この人達、ここまでの装備で実は警察官。しかも通常の警ら態勢です。
その証拠に…


パーカーに「POLICE」の刺繍。
「お巡りさん」クラスでこういった装備はなかなかないんじゃないでしょうか。


 こちらのお巡りさんはもう少しラフです。DPMコピーの都市迷彩上下にHK33。
軍・警察とも、部隊によって弾薬が見事にバラバラなんですが、
補給態勢はどうなっているのでしょう?
 ちなみにこのお巡りさんが、
50m離れた場所から300mmレンズで狙った瞬間こっちに真っ直ぐ振り向いた人です。
格好はラフでも物凄い緊張感。ベトナム戦争従軍兵士の証言

「狙う時は敵に視線を合わせると気付かれる。狙う時は近くの葉や枝を狙え。」

を思い出します。

 レバノンは空港に着いた瞬間からBDUの人が多いです。
不思議なもんで、二日もいれば慣れましたが、バス車内での検問なんかになると
やっぱり緊張しました。


  


Posted by はまさん  at 01:42Comments(0)戦跡・遺構

2010年06月25日

レバノン 3

 カナに行った最大の目的は、

これを見るためです。イスラエル侵攻時、犠牲になったこども達のお墓。
左側の二つは、多分引率教員のお墓でしょう。
 ティールからバスが出ているかと思ったんですが、
バスの運ちゃんに「タクシーでしか行けない」と言われ、タクシーを拾います。
タクシーの運ちゃんには「何でカナなんか行くの」と聞かれましたが、
爆弾で吹っ飛んだ学校があるでしょうと聞くと真っ直ぐ連れて行ってもらえました。


 住宅街のど真ん中にあるんですね。
街道沿いにこども達の顔写真が並んでいる、黄色い旗とレバノン国旗が付いた看板があり
看板に従って道を進んでいくと唐突にありました。
「黄色い旗」と聞いてピンと来る方もいらっしゃるかもしれませんが、
このお墓、ヒズボラが造営・管理しています。
正面の銘板中心にヒズボラのマークが入っていますね。


 学校に飛び込んだミサイルの破片。反対側には壊れた砲弾が刺してあります。
運ちゃんの話では、学校は木っ端微塵になって、ほとんど砂山になったとの事。
避難のために学校でバスを待っていた12歳くらいのこどもと、
引率の教員数十名が犠牲になりました。
車輌の移動制限警告に従った処置か、もしくは避難のために集結する人々を
戦闘員と誤認したかは定かではありません。
 学校の跡地も見せてもらいましたが、住宅街の裏側のにある、かなり奥まった場所です。
正直ミサイルが飛んでくると思えない場所でした。
考えてみればどんなに建物が密集していても、
空が見えればミサイルは飛んでくるわけですから
「交戦地域は安全な場所がない」というのを改めて認識させられました。



 実はカナでは、1998年にも非戦闘員の死傷者を出しています。
国連部隊の宿営地に避難してきた人々に対しイスラエルが攻撃、
国連要員含め百数十名が犠牲になりました。画像は保存されている宿営地食堂。
運ちゃんの説明では「骨までバラバラだった」ということ。
この攻撃は、無人偵察機の情報により決定された事が判っています。


 バラバラになってしまった遺体は、このように食堂の隣の墓地に埋葬されています。
百人規模ということもあり、先ほどに比べかなり大掛かり。
向こう側に見えるトンガリ屋根は、ヒズボラ幹部の記念館のようです。


 個別の遺体が特定できなかったため、墓石には連名で犠牲者の名前が彫ってありました。

 イスラエル国境近くでこんなものを見て回っていたわけですから、
おそらくイスラエル側のUAVオペレーターはしばらく僕の事をトレースしていたはずです。
パスポート更新してもイスラエル入国拒否されたりして(--;)

  


Posted by はまさん  at 00:52Comments(0)戦跡・遺構

2010年06月19日

レバノン 2

※今回の記事を参考に当地に赴いた場合、生命の保証は致しません。

 レバノンに行こうという直接の目的は、
「イスラエルとの国境を見てみたい」というものでした。
2006年のイスラエル侵攻後、レバノン南部辺境はイスラエルに占領され、
同じ村の真ん中に国境の鉄条網が設置されました。
そういったものをこの目で見てみたいというのが希望だったのですが…

南部の要衝「ティール」のいいホテルは赤十字の基地になってました。
ボッタくりタクシーでティールに向かう途中、爆走する国連コンボイも目撃したのですが、
カメラ準備前にて撮影できず。


冷静に考えてみると「国境付近をうろつくタクシー」は怪しすぎます。
しかもちょくちょく降りちゃイスラエル方にカメラを向けているとなると、
下手したらミサイル撃たれかねません。

 ぐっと我慢して、せめて南部の町「カナ」に向かいます。

2006年の軍事作戦では、
南部一帯を移動する車輌は無差別・無警告で攻撃するという宣言が出され、
ティールとカナを結ぶこの街道でも多くの死傷者が出ました。
ティールが近付くにつれて真新しい更地と道路の陥没が目立つようになります。
運ちゃんは「These holes are injury of fuck'n Israel strike」と言ってました。
街を通り過ぎる度に街灯に「殉教者」の肖像がかかっています。


また、南部一帯の農園はヒズボラがロケット弾を秘匿したり発射したりしたため、
クラスター爆弾がばら撒かれました。草むらには近付かないよう注意を受けます。


 カナに到着。田舎のほうは復旧が遅れている印象を受けましたが、
中でもやはりモスクのボコボコ具合が目を引きます。
ヒズボラのメンバーが隠れているという理由と、心理的な効果を狙ってか
モスクは重要な攻撃目標のようです。

 また上の画像で判る通り、この辺りの建物は、
日本の感覚からすると信じられないほどの安普請です。
大陸基準で作られた兵器って、
日本の耐震建築に対してどれくらいの効果を発揮するのでしょうか?

 次回はカナを訪れた目的など。


  


Posted by はまさん  at 01:29Comments(0)戦跡・遺構

2010年06月18日

レバノン

※今回の記事により、当地への渡航を勧めるものではありません。
このサイトを閲覧後、渡航に伴い何らかの事案に巻き込まれた場合でも、当方は一切責任を負いません。

 古新聞です。イスラエル侵攻も落ち着いて、石油でアラブが潤い、
近年では比較的穏やかな時期だった2008年1月の様子。
その道の方々であれば「ヒズボラ」とか「アマル(ペルーのトゥパク・アマルとは別)」暗躍の舞台として
レバノンはピンと来るはずです。
ピンと来ない人は、「地図帳を広げて、木が生えた国旗の国」です(笑)

 レバノンはレバノン内戦後ず~っと小競り合いが続いていて、
そのあたりの詳細は非常にややこしいので省きます。
主な登場人物はイスラム教シーア派・スンナ派、キリスト教コプト教徒、ヒズボラ、アマル、
そしてイスラエル。「ケンカに銃を持ち出すとこうなる見本」と思って下さい。


 のっけからショッキングなこの銅像は、ベイルート中心部のいわゆる「グリーンゾーン」
(「安全地帯」ではなく、アラブ・キリスト双方の居住地域に挟まれた緑地帯。以前は狙撃通り)
に立ち続けている「殉教者の像」。
双方が市街への侵入を防ぐ為メクラ撃ちで打ち合った時、
銃弾を一身に浴びて、「ツバメと王子様」の像のようになってしまっています。
よく見るとナナメ弾になったり弾けて射出していたり、弾の特性が解りますね。

 ここから西に向かうと、ベイルートのシンボル的ビル、「ベイルート・ホリデイイン跡」が。
ニュースなどで、ベイルートと言うとこの青と白のビルを東側から写したものが写ります。
内戦以前は今のドバイのような位置づけだったレバノンのレジャーの象徴でしたが
現在は「武装ビル」の跡として放置されています。近付くと小便臭いです(笑)

 右手に建設中の高層ビルが見えます。ベイルートは2010年をメドに、
古代遺跡と商業施設が複合した文化商業都市として
復興を遂げる予定とされていますが、その工事をめぐって故ラフィク・ハリリ(暗殺)首相の
不明瞭な資金の流れが取り沙汰されたりと相変わらず騒々しいです。
確かに中心部はキレイです。
そのかわり中心部に行く検問所を通る際荷物検査が義務付けられ、
ビデオ撮影は禁止、中心の時計台近辺では写真撮影さえ禁止されました。
(撮影の禁止は専らテロの情報収集を防止するため)
夜になると内務省系の治安組織(HAWKというパーカーを着ている)職員しかおらず、
かなり物々しい雰囲気がありました。


ホリデイインを望遠で見てみましょう。青い色はペンキではなくタイル。
おなじみRPGや軽砲、重砲、戦車砲、小銃拳銃とあらゆる弾が撃ち込まれています。
「武装ビル」として要塞化された時代には、この弾痕から火器を突き出して
道行く人を狙撃、または敵対勢力が占拠したビルと撃ち合いを演じていたという事です。


 柔質目標用弾頭の着弾痕の隣に硬質目標用弾頭の着弾痕。
もう何がなにやら(笑) シロウトが、とりあえず撃てる弾は片っ端から撃った証拠です。
右側の着弾痕は弾がスピンしながら潰れていった様子がよく解ります。恐ろしい。

 南側の裏通りから見た景色。ノッポな一本ビルのような印象のホリデイインですが、
実はまな板のように偏平な形をしています。
こちらはホリデイインを占拠していた勢力の制圧区域だったためか、
重火器の弾痕は見当たりませんが、それでも一面小火器の弾痕。
派手な火災もあったようなので、リニューアルは難しそうです。  


Posted by はまさん  at 00:29Comments(0)戦跡・遺構

2010年01月24日

某総半島西岸


 大分ポピュラーな場所を中心に回ってきましたが、
駆け足だったのでゆっくり見る時間はありませんでした。


写っている人物は僕の「ザ・ボス」です。
ここら辺は首都圏にありながら土地の新陳代謝がゆっくり目なので、
大規模な遺構がたくさん残っていて面白いですね。
いずれ写真の撮り直しと、こぼした遺構を拾うために再訪するつもりです。

※興味本位での訪問、事故を防止するため、
画像の詳細の回答はいたしかねます。
  


Posted by はまさん  at 22:30Comments(0)戦跡・遺構

2009年08月26日

「アノ人」が見た風景

 せっかく楽しみに毎日覗いてくれる方がいらっしゃってるようなのに、
10日も留守にしていたので特別編です。

「WWⅡヨーロッパ戦線の終結」を象徴する映像として、
列柱建造物の上の鈎十字が派手に爆破されるシーンがよく使われます。
あんなデカい建物がどこにあったのか、あったとすれば今どうなってるのか、
結構気になっていたのですが、偶然観る事ができました。

 場所はドイツ東部ニュルンベルク。
ニュルンベルク郊外(市電で10分ほど)のサッカースタジアムの近くにあります。
ニュルンベルクにはナチスの記念碑的建造物が集結していて、
そのために戦後軍事裁判を開く場所として選定されたとか。


 ドク・ツェントルム(旧ナチス本部)。
現在は会議センター兼資料館だそうです。
下部列柱のテラスはそのままトレーラーが走れるほど広いです。
市電はこの前まで。そこからでもひな壇は頭だけ見えます。


 件の建造物はドク・ツェントルムから歩いてこれまた10分ほどの池の対岸にありました。
池の周回路は散歩道になっていて、夕涼みの人がいっぱいです。
その名をツェッペリンフェルトといい、ツェッペリン飛行船の着陸場でもあったようです。
 現在ひな壇の列柱は本来の規模の1/5程度になっていて、
なおかつ周囲はカーレースのレーンとして整備されており、
ひな壇は観戦シートとして利用されているみたいですね。


 演壇です。よく記録映像でヒトラーが手を振りながら降りてくる階段が
後ろのドアから一直線に続いています。
やはり記録映像で見た景色が「そのまま」あるというのは感慨深いですね。
世が世なら普通の人は歩けなかったような場所ですから。


 後ろから見るとほとんど工場。ナチスドイツの兵器をごちゃっとまとめた
平和のオブジェが展示されています。ちなみにひな壇の内部は豪華っぽいです。

 僕が行ったのは夕方6時くらいですが、
ツェッペリンフェルトの周りはネオナチというか走り屋的なお兄さん達がタムロっていて、
あまり雰囲気はよくなかったです。
昼間なら壁打ちテニスしてる人とかランニングしてる人とかいて健康的な感じ。
通常の見学は自由ですが、転落などの危険については「自己責任」だそうです。


 個人的な感想なんですが、
ナチスの建造物というのは威圧感だけあって美的感動がありません。
装飾の少なさというかデカさの割にのっぺりしたというか何というか、
さも

「どうだ! スゴイだろ!! どうだどうだ!!」

と言ってきたげなマッチョな印象なんですよね。
ダムや工場が素直に「スゴイなぁ」と思えるのは本来の機能に付随する「迫力」があるからで、
「迫力」そのものが機能となっているモノって「狙ってる」感じがして興ざめです。


ドク・ツェントルムが見下ろすフォルクスプラッツ(国民広場)では
夏の「フォルクスフェスト(国民祭り)」が今でも開かれます。簡易遊園地みたいなもの。  


Posted by はまさん  at 23:57Comments(0)戦跡・遺構