2015年07月06日

沖縄県民は基地の周りに寄生したのか

沖縄県民は基地の周りに寄生したのか

 画像は普天間基地内 滑走路南側偏差誘導灯下の墳墓群。
沖縄の墓は内地の墓と違い、
横穴状または家状の構造物の中に一族全員先祖代々の骨壺を収納していく
台湾などで見られるスタイルの大掛かりなものです。

沖縄の基地のフェンスの内側にはよく墓が取り残されているのが見られます。
なぜかというと・・・

 まず、現普天間基地ができる前の宜野湾の様子。
前身の日本軍の飛行場も建設されていません。

沖縄県民は基地の周りに寄生したのか
この画像の普天間基地の範囲内に
屋敷林とおぼしき影をプロットしていきました。

昔の沖縄の民家は風除けのため、フクギを屋敷の四方に植えました。
屋根の漆喰(白)が樹木(黒四角)に囲まれた顕著な屋敷林が
街道沿いにまとまって、また普天間の台地上に散在する形で見られます。

西のほうは雲の影で鮮明ではない+普天間基地の敷地以外は面倒
なので省きましたが、画面全体にわたり同じような密度で屋敷林があります


 次に沖縄戦後間もなくの様子。

沖縄県民は基地の周りに寄生したのか
米軍が手を入れた土地(土が露出した白い土地)をプロット。
数々の橋頭保、駐屯地、住民キャンプが見られます。
観測機用の小滑走路もちらほら。
道は元の道を無視して畑や街の中をドーザーで開削したものもあり、
この時米軍が開削した道が、ほぼそのまま現道となっています。

 注意したいのは、この赤枠内だけが米軍の土地ではないという事です。
米軍が占領した時点で、沖縄の土地は全て米軍のものとなりました。
赤枠外に家が残っていたからと言ってそこに住み続けられるわけではありません。

 収容された沖縄県民は一旦全員が住民キャンプに送られ、
基地建設がひと段落した地域の住民から順序帰還となるのですが、
当然基地機能の集約や強化の過程で戦後すぐ、
あるいは戦後数年後に土地を追われる人々が出ました。

 田畑は収穫前の作物もろとも海砂で埋められブルドーザーで均され、
家には火を放たれて焼かれましたが住民はただ見守ることしかできなかった。
なぜなら作業区域の前には銃剣を向けたMPがスクラムを組んでいたからです。
これが沖縄近代史における「銃剣とブルドーザー」というキーワードです。

 一時は沖縄中の平地という平地が飛行場や物資集積地として使用され、沖縄の農業は壊滅。
ただでさえ食糧難にもかかわらず元農民も職業の転換を余儀なくされました。
沖縄本島中で農地を追われた農民は市街地に流入し、市街地は膨らんでいきます。

 田畑になる平坦地はほぼ全て接収され、耕すべき土地を失った人々は
薬莢や銃弾、爆弾や放棄された兵器を拾ってスクラップ屋を始め
わずかに残された平地にひしめき合うように暮らしました。

 沖縄戦で大黒柱を失った多くの母親たちは
キャバレーや売春宿で米兵相手の商売をしながら子供の食い扶持を稼ぎ
それでも日本なら何とかしてくれるはずだ、沖縄を見捨てないはずだと
小さな望みを糧に戦後30年のアメリカ統治下を過ごしました。

 日本本土は戦後10年で「もはや戦後ではない」復興を遂げましたが、
その一方で沖縄の戦後は、終戦後30年以上放置され続けたのです。
沖縄県民の本土不信の根源は、この放置にあると小生は考えています。
この現状を知らずして沖縄県民を責めるだけでは、話は一向に前進しません。

 この話がサヨクの捏造だ、琉球新報の情報操作だと取る人はそれでもいいのですが、
根本の問題は沖縄への無関心と無理解にあります。
同胞の涙に鈍感な人は、最後にこの国を護ることはできないと強く感じます。


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Posted by はまさん  at 20:12 │Comments(0)戦跡・遺構

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